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たきや概要

たきや漁概要
「はまな(水産試験場浜名湖分場所有)」106号、昭和45年発刊より転載
たきや漁概要として昭和45年1月の「はまな(水産試験場浜名湖分場保有)」第106号 昭和45年発刊の記事にたきや漁師からの話をまとめたものがありますのでその内容をここに転載しました。文中にある現代(昭和45年当時)などの言葉をそのままの記述で転載してますのでご理解ください。
はじめに
たきや漁業は、浜名湖独特のものであり、この漁法は小さなかぶせ網と突き棒の二つの道具でおこなわれ、営業としているのは、浜名湖だけだと思われる。また、たきや漁業を営む漁師は湖東部の雄踏町に限られ、このほか隣接の舞阪町、新居町にも若干いるが、たきや発生の歴史から見れば亜流であり戦後始まったもので人数も少ない。このように、地域的に限られた所の漁師が伝統的な漁法を守っていることは大変興味深い。
たきや漁の起こり
年輩漁師からの話によると、100年以上もの昔の事になりますが、浜名湖には古来、昼間の見ヅキ(昼間、魚やエビを見て突く)といったものはあった。これは特に変わったものでもなく、夏など小中学校の生徒でも海浜でやる、もりで魚を突くやり方だ、それを夜間、光に魚を集めて突く、といったものに変えたのが夜ボリで、浜名湖畔でたき火をしていた 故加茂蔦蔵さんが、目の前を横切った大きな魚を青竹で見事にしとめたことから始ったと言われ、その後船を出して魚を突く方法が定着していきました。 当時は光源として松明(タイマツ)を使った。松明は庄内(今の浜松市白州町和田町)、から買い、材料はベタ松といって、松の芯ばかりのものを使った。年間一人200束使い一晩の漁には4束くらいを燃やしたという。その当時は魚、クルマエビも豊富だったので松明の消費量から割ると年間に50日ほどしか出漁しないことになる。
たきやの名の由来
このように松明を燃やして光源としたことから、タキヤと呼び、ヤは俗な呼び方に魚屋、肉屋という「ヤ」の意味と考えられる。夜間、光をたよりの稼業であるから、風波がたてばもう水面はよくみえないことになり、年間の出漁日数が少ないのもこの辺に理由がある。 このように松明(タイマツ)からはじまったタキヤがガンドウになり、一方向に光を強く当ててた。 これを使って中村作太郎さん、神村林松さんらによって、東海道線鉄橋下に集まるオチエビ、クルマエビ(6月~8月の時期に湖南部に下るクルマエビ捕りに成功したことに刺激され、ガンドウによる突漁法の時代に入った。昭和初期から10年代には、夜店などの光源に使われたガスランプがガンドウに代わって用いられたが、すぐにバッテリーが入ったので、ガスランプを使ったのは2,3年にすぎなかった。 バッテリーにより電球を点じ この時代は昭和10年から始まったとしても、もう70年になるわけだが、はじめは、電球を水中に入れず、水面上数十cm~1mのところで点灯していた。波による水面の反射を考えると、おそろしく光の効率がわるかったに違いない。 水中灯となったのは、やっと戦後になった昭和24年からであった。当時は水中灯はクルマエビを捕る時だけで、魚を捕るのは、あいかわらず電球を深いカサに入れて、ガンドウとして使っていた。はじめて水中灯を用いたのは誰によるのか、最近のことにしては、わからないが、弁天島の漁師によると言われている。弁天島のそれは戦後の引揚者がなったものが多く、そこいらに新しい工夫があったのかもしれない。 バッテリーの導入された昭和10年初めに、この漁業に従う者約40名であったが、戦時中は、灯火の規制により一時中断し、戦後、再開してからは特に産業のまだ復興しなかった時代として、引揚者、復員した者がこの漁業に参加うる希望が多く、県の許可漁業とする方針と反して来て参加させて船、バッテリーの工面までした。 このため120~130名くらいにその当時の民生安定に役立った。 しかし昭和も30年代中頃になると、昼間働いて固定収入の良い工場、会社に勤める者が多くなり、若い者は、夜間の漁業を嫌って寄り付かず今では(昭45年当時)専業者60~70名で天候さえよければ毎日出漁するという人は50名余りである。ここでも深刻な後継者難である。  現在(平成20年)ではタキヤ漁師は25名で観光が主となっており、さらに深刻な後継者不足となっている。
たきやの道具
タキヤのもう一つの特徴として、使用する突き(ヤス又はモリ)とカブセ網がある。「突き」は子供たちが魚をとる時に使うのと同じ形ではあるが、外車のスプリング材を使用し、先をとがらせたモリで、突先は6~8本にわかれ、プロのものだけに、頑丈な作りである。 また柄竹も長さ2.5間(4~5m)のものまであり、竹の太さもひとにぎりはある。 タキヤの使うカブセ網はおそらく全国を回っても、ありふれたもののようであるが、ほとんど同じ形がないであろう。 ごく簡単ではあるが、エビが水中や砂底をピンッと跳ねる習性をよくつかんでいて面白い。 この構造は網地自体は目合18節で口径が25㎝くらい。子供がメダカをすくいに行くタモ網と同じ大きさと網目である。 ただ網の底を頂点として一本の紐がついていて、網口の丸い針金から直角にたったニギリ竹と一緒に、この紐を持つと網地は三角帽子のように立っている。  クルマエビをはじめ、水底にいる魚がいれば、すばやくかぶせて、紐を緩めると網地はペタンと崩れて網の中にとらえられた獲物は網地にかぶせられ、絡まることとなり、素早く船の中のカンコ(船底の栓を抜いて水を入れてある所)にあければよい、このようにとらえられたエビ魚は手で触れることがないので活きがよく、ことにクルマエビであれば、鮮度を尊重するので、商品価値が高くなる。 また釣り餌用に向く小型のエビなら、活きのよいことが必要なのはいまさら云うまでもなかろう。 本来突漁法からはじまったタキヤが、カブセ網式になったのにも、いくつかの変遷(ヘンセン)があったが、いずれにしても、その発生は新しいといえる。  昭和3年に中村太吉氏がまず黄銅製網を使って、かぶせ網を使い始め、昭和 10年から、中村達郎氏が現在(昭和45年当時)のような網地によるものを使いだした。 この金網は今ではステンレス網となって現在でも使われている。 タキヤは道具が簡単なことにより、やさしい漁法に思われるが、夜間、光をたよりにすばやく獲物を発見すること、また突くにしても網をかぶせるにしても、一瞬にして、しとめなければいけないので、漁師個人の能力・技術といったものが、一晩の漁獲量に大きくひびくのである。 また、興味あることは浜名湖内といっても、ほとんど南北の真ん中辺から南部に限られるが、この狭い漁場のでも、漁師による好みというか、得意とする漁場がある。 獲物を釣り餌用にクルマエビのちいさいものにおくか、出荷して高級料理用としてのサイズにおくかによって湖の東、西に分かれるしその日の天候、ことに風向きによって、さらに場所が変わる。 水深はせいぜい1mくらいであるが水の澄んでいる秋などは深いところでも獲物をしとめる。 今でこそ、船一艘に漁師一人であるが、突きだけをやっていた昭和以前には船頭と突師と二人が乗り込み、気合いを合わせて魚を突いていたのだから、まことにノンビリした風景である。 もっとも、櫓を操っていたせいでもあろうか。 船に機関がすわり、現在のように、全漁船にエンジンが設備されてからは、漁師は 各船に一人ずつである。
雄踏町図書館内の資料室に保管展示されたたきや漁に使われた古い道具
船の舳先で松明を燃やした火籠

昭和の初めに使われていた光源 ガンドウ

現在使用されているバッテリー式の光源 水中灯


竹竿の先端に付けられたクシ モリ

えびを上からかぶせて獲るかぶせ網 かぶせ網とクシ

現在使用されているたきや船 たきや船
たきやで捕らえられた珍魚・大物
漁獲物であるが、個人技による漁法であるだけに、特に、自慢めいた大物・珍魚の獲物話が多く出た。 一晩でクルマエビ4貫200匁(15.8kg)4~5万円に当たる量をかぶせて捕らえたこと、ウナギを1日で15貫(56kg)突いたこと。黒鯛を14貫(52kg)捕ったという記録もある。 大物では体長4尺5寸(1.3m)のスズキを突いたり、アカエイの9尺(2.7m)を捕った話もでた。 多穫の記録ではスズキ(マダカ)の1貫以上(3.75kg)のもの38本、アカエイ39枚といったものもあった。 しかし、このような記録が昭和20年代から30年代の中頃で終わっているのが残念である。 先にも戦時中灯火管制で休漁したことを書いたが、終戦直後の昭和20年8月22日には、現組合長中村保(昭和45年当時)が初出漁している。 この時は休漁の影響か、カキ棚のまわりにクロダイが 渦巻くほど見られたということだ。 このため同氏は会社勤務を辞めて、タキヤ漁師に専業となったと話している。 珍しい獲物では、ウミガメの甲羅長1間(1.8m)くらいで、浦島太郎の童話にあるように海藻をヒゲ尾のように引いていたことや、オットセイらしいもの、ナイラ(ダツに似ている)の体長3間(5m)くらいのものがおり、漁師が足を攻撃され怪我をしたということもあるという。 しかし、この魚の小型のものは毎年秋になると突き上げられ、昭和43年秋、メジロウナギ(目の周りの白いウナギ)で1m余りのもの、昭和35年チリ津波の寄せた日には大ハタをとったこと、トビウオ、アンコウなどの漁獲が報告されている。 ただ、赤鯛は当才物はいるが2才ものはいないことやウミガメの発見が最近はほとんどなくなったことも知られている。
たきやによる漁況の返還
漁獲物であるが、個人技による漁法であるだけに、特に、自慢めいた大物・珍魚の獲物話が多く出た。 一晩でクルマエビ4貫200匁(15.8kg)4~5万円に当たる量をかぶせて捕らえたこと、ウナギを1日で15貫(56kg)突いたこと。黒鯛を14貫(52kg)捕ったという記録もある。大物では体長4尺5寸(1.3m)のスズキを突いたり、アカエイの9尺(2.7m)を捕った話もでた。多穫の記録ではスズキ(マダカ)の1貫以上(3.75kg)のもの38本、アカエイ39枚といったものもあった。しかし、このような記録が昭和20年代から30年代の中頃で終わっているのが残念である。 先にも戦時中灯火管制で休漁したことを書いたが、終戦直後の昭和20年8月22日には、現組合長中村保(昭和45年当時)が初出漁している。この時は休漁の影響か、カキ棚のまわりにクロダイが 渦巻くほど見られたということだ。このため同氏は会社勤務を辞めて、タキヤ漁師に専業となったと話している。 珍しい獲物では、ウミガメの甲羅長1間(1.8m)くらいで、浦島太郎の童話にあるように海藻をヒゲ尾のように引いていたことや、オットセイらしいもの、ナイラ(ダツに似ている)の体長3間(5m)くらいのものがおり、漁師が足を攻撃され怪我をしたということもあるという。しかし、この魚の小型のものは毎年秋になると突き上げられ、昭和43年秋、メジロウナギ(目の周りの白いウナギ)で1m余りのもの、昭和35年チリ津波の寄せた日には大ハタをとったこと、トビウオ、アンコウなどの漁獲が報告されている。ただ、赤鯛は当才物はいるが2才ものはいないことやウミガメの発見が最近はほとんどなくなったことも知られている。
操業時の服装
漁をするときの服装であるが、夏なら軽装ですみ、水中を徒足で行く時はゴム胴長靴を履けば済む、寒くなりかけてくると最近はスポンジで防寒シタオーバーオール型の胴長靴がある。ずれにしてもゴム長靴類のなかった時代はねらう獲物が魚なら水中に入らず船上から突いたものであるが、クルマエビならヌノコを着て水にはいったという。漁の作法というか礼儀としては、他の人が漁をしている前にはでないとか、先に出たものの灯りに先をゆずるとかいったことがあったが、最近はこんなことを云う人もなくなったと年輩漁師は語っていた。また、昔は風が吹いて、タモ網立てて風の切る音があると休漁したというのんびりさであった。魚エビが多く、漁師がその割に少なかった良き時代のしきたりであったのだろう。
タキヤの漁期
タキヤの漁期は3,4月から12月頃までであるが1,2月に出漁したこともあった。現在浜名湖の主な漁具と漁業は角立網(小型定置網)、ノリ漁業、ウナギシラス漁業になっており、これらを3月末までやるので、タキヤ漁の開始が若干おそくなり3月末から4月初めにタキヤの漁がはじまるようになった。ノリ漁場は、浜名湖の南半分を占めるほど、その漁場面積が拡がり、タキヤの漁場と競するために、今後頭の痛い問題となろう。タキヤ漁師にいわせると、ノリ業者が盛んになってからクルマエビが少なくなったとも言っている。
タキヤと皇室
昭和43年8月に皇太子ご一家が避暑のため浜名湖岸に数日を過ごされたが、そのおり、水産試験場にお成りになられ、湖内の水産生物と水産業について、職員のご進講をお受けになられた。タキヤについても、その道具をご覧になられ、どのくらい獲れているか。よどおしの仕事でいつ寝るのかとのご質問をいただき、次においでくださる時は、タキヤを実際見ていただくためには月の出ない頃をお選びになるように申し上げた。次の年、44年7月に再度ご一家のご避暑があり、その節は殿下のご研究の材料集めのために夜間わざわざモーターボート数隻で村櫛前までおいでになって、8時から9時すぎまで、予定の時間をとっくに過ぎてまで、雄踏のタキヤ業者そうでの操業ぶりをご覧になられた。皇太子殿下、浩宮さまは小さなタキヤ船に乗られて、カブセ網を持たれたり、空棒を持って、水中灯にうつしだされる、湖底の獲物を次々と追われ、時の過ぎるのを忘れられたご様子であった。特に浩宮さまは一突きでシマイサキを突かれて大喝采をあびられた。戦前、それも昭和10年以前に高松宮様がご来浜の際、山内勇氏がタキヤによって獲ったドウマン(大形のカニ)を献上した記録があるという。
これからのタキヤ漁業
タキヤ漁業も、浜名湖の観光化にともない、遊船としての仕事をはじめ、43年1月にタキヤ遊船組合総会がもたれた。同年4月7日までに約60隻が準備を終わり、漁師は小型船舶操縦士の免許をとり、救命具の備えをして、今後の観光漁業への役目を果たそうとの意気。

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